日本国民に告ぐ。沖縄県民斯く戦えり2013/2/15

海軍司令官太田実少将は自決に先立つ海軍省次官宛の電文の末尾に「沖縄県民斯く戦えり後世格別の御高配を賜らん事を」と結ぶ。

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米軍基地の実態 ◆占領下と同じ ◆万国津梁の歴史 ◆薩摩の搾取 ◆琉球処分とは ◆鉄の暴風
軍政下の基地  ◆核抜き本土並 ◆基地被害  ◆大琉球へ ◆独立への道 ◆復帰30年 ◆文書末尾

1995年12月、社会党委員長であり内閣総理大臣である村山富市氏は米軍基地用地の強制収用手続きの一環として、太田昌秀沖縄県知事に対する職務執行命令訴訟を提起した。国側準備書面に拠れば沖縄に米軍基地が集中している事は1972年復帰に際し日米両国の合意に基づく基本的な政策であり、1995年の時点においても維持されている。日本列島の南西端に位置する沖縄は安保条約の目的を達成する為の地理的条件を満たしている。基地の移転は新たな財政的負担を必要とし現状を維持する方が負担が少ない。沖縄に於ける米軍基地形成の歴史的事情は現行の法律に依って適法性が満たされており、不当とは言えない。関係法規に県民を差別する条項は存在せず、憲法14条は絶対的平等を保証した物ではない。と成っている。

しからば1972年「核抜き本土並」と表現した時の総理、佐藤栄作氏の背任であり県民への差別で無くて何であろう。当時の佐藤総理特使として米国のキッシンジャーと秘密交渉を担当した京都産業大学元教授、故若泉敬氏の「他策なかりしを信ぜむと欲す」文芸春秋社において核抜きがまやかしであった事は明白であり、国土の0.6%しか無い県内に米軍基地の75%が集中する現状が差別でなくて何であろう。安保条約の目的に合致した地理的条件に有る事が前記の差別を当然とする発想は先の大戦に於ける悲劇をも容認せよと言うに等しい。基地移転に要する財政的負担に至っては正に国家権力のエゴ以外の何物でもない。

沖縄に於ける米軍基地が占領下において強制的に接収された経過を考えるならば現行法規上、適法であったとしても現行法自体が現状を追認する為に制定された物であり、とうてい肯定できる物ではない。しかもそれが制定された目的は沖縄における米軍基地を維持する事が主眼であり、目に余る不平等を法の名において持続しようとしているのであり憲法14条の存在自体が無意味と成るのではないか。例えば国会議員定数における1票の格差が3倍を越えた場合に違憲とする考え方からすれば、沖縄の米軍基地密度は人口比において三百倍、面積比において五百倍の負担であり、他県における場合と異なり大部分が個人有地であり、強制的に基地とされた経過を考えるならば差別と言わずして何と言うべきであろうか。

更に言うならば沖縄における米軍基地の実態は量的のみならず質的にも明らかに他県とは大きな違いが有り、同列に論じられる物ではない。例えばハワイに司令部を置く第三海兵師団の実働部隊が米国内以外に唯一沖縄に常駐し、常に有事即応態勢にある。それ故に米軍用地のみならず周辺の民間地域が常に戦場と同じ状況に置かれているのであり、アジア全域の中で沖縄だけが特別視されているのである。横田に司令部を置く第五空軍の主力も嘉手納基地に配備され中東を含むアジア全域に即時展開可能な態勢に置かれている。しかも嘉手納基地には米軍の虎の子F−15戦闘機隊を敵国の核攻撃から守る為の核シェルターの建設が日本政府の思いやり予算によって着々と進行しつつある。(当初の計画では72機分であったが米軍の削減計画により48機分に変更された)基地内には軍人と家族を守るシェルターが既に存在するが嘉手納基地周辺は住宅密集地であり、核攻撃を受ければ、どの様な惨状を呈するか明白であろう。嘉手納図面

我々は53年前に軍隊が住民を守らない事を身を以て知っている。ベトナム戦争中には沖縄近海を航行中の空母タイコンデロガから水爆搭載のAー4スカイホーク攻撃機が海中に転落し行方不明となり、今なお海底に沈んだ侭である様に、沖縄の地理的要件は正に安保の要であり、太平洋の要石である。従って日米安保条約の抜本的見直しを計らない限り米軍が沖縄の基地を手放す事は有り得ないのであろうが、それならば日本政府として今成すべき事は沖縄が置かれている差別的現状を直視し、将来に亘る基地の現状を容認するのではなく、アジアの平和、安全の為に米軍の存在に替わる安全保障の為の有効なシステムを構築すべきであり、それが不可能であるならば沖縄の米軍基地の機能を沖縄以外の地域に積極的に移転すべきであろう。

米国側から見た場合、在日米軍基地は日本政府の思いやり予算の存在に依って財政的に極めて有利であり、他国もしくは米国内への移転は絶対に受け入れまい。従って米国がアジアへの前方展開戦略を維持し日本政府が賛同するのであれば、沖縄の米軍基地の縮小は基本的に他県への移転でなければ成らず財政的負担は当然である。日米安保条約が日本の安全に不可欠な存在であるならば沖縄からの基地移転は国民全体の義務であり拒む事は出来ない筈である。しかしながら現状は極めて憂慮すべき状況にある。安保条約の義務である米軍基地の受け入れを大部分の国民と地域が拒否しようとしているのであり、沖縄への同情はすれども本音の部分では沖縄の現状固定化を望んでいるのである。

この様な現状に鑑みて沖縄側が採るべき選択肢は極めて限られた物に成らざるを得ない。一つは従来通り現状を肯定し不幸な歴史の延長に甘んじ経済大国日本の尻尾で有り続けるか。あるいは万難を排して差別と闘い地方分権の魁となり中央集権国家日本の解体を目指すか。後者の場合に果たして展望は開けるのであろうか。残念ながら極めて悲観的と言わざるを得ない。しからば沖縄は再び沈黙せざるを得ないのであろうか。

国連常任理事国入りを目指し世界のリーダーを自認する日本国内に治外法権の占領下に等しい米軍基地を存続させる事が国益に合致すると日本国民は考えるのであろうか。例えば那覇空港を発着する民間機が米軍の管制を受け半径5KMの区間を二千フィート以下の高度で飛行しなければならない現状が果たして主権国家と呼べるのであろうか。更には沖縄周辺の海、空域に設定された米軍演習区の間隙を通行する事を強制され嘉手納FIR(飛行情報区)全体が米軍の管理下に在る事を異常と感じないのであろうか。

民間地域の道路を完全武装の米兵が我が物顔で行軍し、弾薬を満載し戦車や大砲を積載したトレーラーがMP(米軍憲兵)の先導で信号無視で通行し、住宅地の頭上を米軍の戦闘機がヘリコプターが低空で旋回し、武装兵が宙吊りで移動している現状が日本国憲法の定める基本的人権、平和的生存権を満たしていると言えるのであろうか。県道を越えて砲弾が飛び住民の至近距離で機関銃が自動小銃が連射され、時には流弾が住宅に飛び込み、陸軍グリーンベレーがパラシュートで庭先に落下してくる環境の中で憲法で保証された健康で文化的な生活を営む事が可能であろうか。

いずれにせよ我々、沖縄県民はこの地に生まれ、将来もこの地に生き続けるのであり、一時的な同情や共感を求めているのではない。日本やアジアの安全保障に必要とされる米軍基地の存在自体が沖縄にとって危険であり不利益となっている構図は53年前に終結した悲劇の再現であり、更には1609年の薩摩による侵略に始まる苦難の歴史の繰り返しである。

想えば我々の沖縄は古の誇り高き独立国であり、日本を含むアジア全域と平和互恵の交易を通じて栄華を極めた海邦の民、大琉球の末裔である。今を去る1458年、第一尚氏6代目の尚泰久王の砌「万国津梁の鐘」を鋳造し、琉球は南海の勝地にして三韓の秀を集め、大明を輔車とし日域を以て唇歯となす。舟輯を以て万国の津梁と成さん。萬国津梁の鐘と宣言した貿易大国であり、世界の国と人々の文化を等しく評価した博愛の国であった。他国の政治、宗教に干渉せず人類普遍の礼節を重んじる守礼の民であった。荒れ狂う暴風雨にもめげず自然と共生し、万里の波濤を越えて海上の道を繋いだ素朴で勇気ある人々であった。

更には先史以来、南海を起点に環太平洋に生活圏を拡げてきた南方系モンゴロイドの血筋であり、かって日本列島全体に居住したが現在は少数派となった北海道のアイヌ、北極圏のイヌイット、北米のインディアン、南米のインディオ、ポリネシア諸島の人々、南アジアの民と共に生きてきた先住民族であった。自然を愛し、自然を怖れ、自然を敬い、自然を尊び自然と共に生きる楽天的な人々であった。来る者を拒まず、去る者を追わず天地の神を信じ平和を愛する人々であった。

それ故にこそ我々は日本人を信じ、心を許して来たのであり、不幸な歴史に甘んじなければならなかったのである。

1600年、関ヶ原の戦に敗れた薩摩の島津家は財政の破錠を来たし琉球への侵略を企む。1441年、室町幕府の6代将軍足利義教が人気取りの気紛れで島津家に琉球を与えた事を根拠として徳川幕府の同意を取り付ける。

1609年3月運天港に上陸した三千余の軍勢は今帰仁城を落とし、和議を求める国王尚寧に対し鹿児島への同行を求める。心ならずも人質となった尚寧王は更に江戸の将軍家への同行を強制され、薩摩藩の示威行列の見せ物とされたあげく、帰国の条件として「掟15ヵ条」の占領承諾起請文への署名を強要される。時の三司官(首相)謝名親方利山は薩摩の要求を拒否し続け、遂には殺害される。硬骨の人、利山の名は今、沖縄最大のリゾートホテルにその名を留めている。

時に1611年9月、2年余の人質生活から帰国した尚寧王は苦難の道を歩まざるを得ない琉球の未来に涙すると共に、王家の歴史に汚名を残す事を恥じ、王家の墓所「玉陵」に葬られる事を拒み、尚家以前の王城の地、浦添に墓所を造った。

薩摩の占領政策は極めて狡猾な物であった。交易の利益を確保する為に中国とは従前通りの册封関係を維持し、薩摩による支配を気付かれてはならない。その為に琉球人には大和風の衣服の着用を禁じ、江戸上り(徳川幕府の代替わりを言祝ぐ慶賀使、琉球王の代替わりを感謝する謝恩使)の行列においても異国風を強要し警護の名目で随行する薩摩藩士との関係で異国支配を喧伝したのである。先の「掟15ヶ条」に基づき何事も薩摩の許可なしには行うな。奄美諸島(所謂奄美五島)は薩摩領とする。琉球の領土から得られる九万石に見合う年貢を納めよ。歴史的に薩摩は琉球を保護して来たから以後薩摩を親国と呼び国元と呼ぶべし。

この時以降、奄美諸島は琉球から切り離されて薩摩の直接支配下で過酷な収奪の対象とされる。全国的に知られる「大島紬」と砂糖の増産は薩摩の財政再建に多大な貢献を果たす事になったが逆に言えば奄美住民の生活は厳重な監視の下で困窮を極めたのである。

琉球の場合も薩摩の検地による九万石もの米を生産する事は到底不可能な無理難題であった。隆起珊瑚礁の島である琉球列島は大部分が珊瑚の形成した石灰岩が酸化し風化した酸性土壌の赤土で覆われ水稲栽培の適地は極めて限定される。従って琉球王府も薩摩の要求する九万石の年貢を納める為に苦慮し様々な形で領民への負担を強いる必要が生じたのである。特に先島地方に対しては册封使節との関係で首里那覇周辺では比較的緩やかな税制を維持せざるを得ない為の反動で極限とも言うべき過酷な税制が強要される結果となったのである。所謂「人頭税」はこの様な背景から創設され幾多の悲惨な状況を現出し「生き地獄」からの脱却を目指して海の彼方に存在する桃源郷「ニライカナイ」へと旅立つ与那国の「ハイドナン」波照間の「パイパテローマ」伝説を育んだのである。しかも後に述べる様に「人頭税」は明治12年の琉球処分「沖縄県」成立以降も明治政府の旧慣温存策によって廃止されず20年間も存続したのである。

かくして琉球王国は名のみの国となり武器を禁じられた結果、ナポレオンをして世界に武器なき国が存在するのかと言わしめるに至る。失意の中でも希望を失うまいとする武器なき氏族の誇りをかけた精進が空手道を完成させ、册封使節の接待に伴う芸能文化の粋を極めるに至る。以後260年に及ぶ薩摩の苛斂誅求が続く間、表面的には中国の册封使を迎え華麗なる王朝芸能絵巻が繰り広げられつつも、王城の地を離れた民の生活は地を這うが如き過酷な収奪の下に置かれたのである。政治のみならず経済においても薩摩の権力を笠に着た薩摩商人によって牛耳られ、明治以後も1945年の敗戦に至るまで経済の自立は阻まれ続けたのである。

時は移り1879年4月明治政府は琉球処分を断行し沖縄県を置く。最後の国王尚泰は侯爵として東京への移住を命じられ王城の地を去り、熊本鎮台の分遣隊が駐屯する。富国強兵を国是とする明治政府にとって中国に親近感を持つ沖縄県民は獅子身中の虫となる危険な三等国民であり、徹底的な皇民化教育が必要であった。1881年5月に赴任した第二代県令、旧米沢藩主上杉茂憲公は沖縄本島の隅々まで自分の足で歩き民情を視察した。彼は積年の悪政に疲弊し切った民の生活を救う為に、明治政府に対し民生の向上を計る特別予算を再三に亘り要請した結果、政府の施策と対立し解任される。

薩長閥を主体とした明治政府の施策は沖縄に対し旧態依然であり、更に過酷なものとなっていった。特に第四代県知事となった鹿児島出身の奈良原繁は自ら琉球王と称し県民蔑視の独善的施政を強行した。県出身の先駆者として東京で教育を受けた謝花昇を始めとする青年達は自由民権の名の下に結集し奈良原知事を弾劾するが敗れ、謝花昇は失意の中に生を終える。薩摩による支配体制を温存した県政は悪名高き人頭税を改めず、明治30年新潟県の人、中村十作の運動を待たなければ先島に近代の夜明けは訪れなかったのである。明治32年に至って漸く人頭税が廃止されるが日本政府側には徴兵制度の適用が税制改革を促す必然性であった。謝花昇の同志、当山久三は県政改革の道遠しを知り、海外雄飛に活路を得べく移民運動に転換する。貧窮から脱する為の移民運動は戦後にも継続し海外在住者は30万余を数えている。

明治以降の徹底した皇民化教育の結果、古の自立心を失った沖縄県民は軍国日本の捨て石となって鉄の暴風の中を逃げ惑い、友軍と信じた日本兵によって殺され、皇国臣民の名誉を体現する為に無用の死を選び、動物的忠誠心(故大宅壮一氏の言)と嘲られる悲惨な結末を迎えなければならなかった。 海軍司令官大田実少将は県民の苦難に心を痛め、自決に先立つ海軍省あて電文の末尾を「沖縄県民かく戦えり、後世格別の御高配を賜らん事を」と結ぶが、戦後の日本政府は本土の占領解除と引き替えに1952年講和条約によって奄美を含む沖縄の統治権を放棄する。

終戦に先立ちエジプトのカイロで会談した中国の蒋介石はルーズベルト米国大統領とチャーチル英国首相に対し中国による琉球の領有権を主張するが結論を得ず、アメリカによる信託統治を受け入れる。中国大陸を逐われた蒋介石の発言力低下と朝鮮戦争を通じた日本の再軍備と戦争協力によって日米安保条約が結ばれると共にアメリカは琉球に対する日本の潜在主権を認めるが蒋介石は同意しなかった。台湾に政府を移した蒋介石は大陸との勢力差を補う方策として琉球の独立による連合を目指して工作を続けるが実を結ばなかった。

実質的には1609年以来薩摩の支配下にあったにせよ中国による册封を受け入れてきた琉球の地位は日本の領土とは言い難いし、1869年の薩摩の版籍奉還、1871年の廃藩置県によっても琉球王国の体制は維持されていたのであり、明治政府の所管も当初は外務省となっていた。1872年宮古島の船が台湾に漂着し現地人(所謂高砂族)に襲撃された事件に際し時の中国政府が責任逃れに言い訳した言葉が「台湾は化外の地であり中国政府の管轄の及ばざる処也」この言い訳に憤慨し1873年台湾に出兵した明治政府は広大な台湾の平地が未開の状態にある事を知り之を放置して来た中国政府の無知に乗じて其の領有を計るべく琉球の所管を内務省に移し、1875年琉球に対し政府命令として王国の解体を通告するが拒否される。1879年4月明治政府は中国と琉球の抗議の中で武力によって沖縄県の設置を強行し日本領土としたのであり、国際法から見ても疑問が残ると言わざるを得ない。従って現在も尚、琉球の法的地位は確定しているとは言い難いのである。

いずれにせよ明治以降の皇民化教育によって軍国日本の捨て石とされた沖縄は、戦後も再び新生日本の独立の代償に統治権を放棄され27年間もアメリカの軍政下に置かれたのである。1960年日米安保条約改定をめぐる日本国内の混乱を目にしたアメリカは本土の基地の安全性に疑問を持ち、沖縄の基地拡大強化を強行する。島ぐるみ反対闘争の中で住民を銃剣で追い立て家屋に火をつけて焼き払い、ブルドーザーで敷き均す事によって現在の基地が完成を見るのである。これに先立ち東京の立川基地拡張をめぐって地元砂川町民の反対闘争に手を焼いた日本政府は町長に対する職務執行命令訴訟を提起するが、沖縄の基地拡大方針により立川基地の拡張が中止となり、結果的に国側勝訴の判決は実効性を見ずに終息したのである。

かくして米軍は基地強化の困難な日本本土の基地整備を見限り、軍政下にある沖縄への基地集中策を押し進めたのである。1945年の上陸以来、ある意味で解放軍として県民の命を救い、民主主義の理想を具現して県民に敬愛されてきた米軍が一転して占領軍となり県民を弾圧する圧制者の正体を現したのである。人権保護と自治権を求める闘争の過程で基地として不要な奄美諸島の施政権が日本に返還され再び鹿児島県に編入される。ここに日本本土防衛の防波堤としての沖縄の位置付けが日本政府によって再確認され、再び苦難の道を歩む必然性が設定されたのである。

1964年東京オリンピックの開催によって新生日本は世界に認知される。県民の願望はいつしか平和憲法に守られる日本復帰に集約され希望の炎となって燃え上がるのである。ソ連との軍拡競争とベトナム戦争の泥沼化、日本の高度成長に伴う貿易赤字によって世界経済の支配力を失ったアメリカは財政赤字に苦しみ、県民の反基地闘争によって基地機能の維持に苦慮した結果、日本政府による防衛費負担と基地機能の維持を条件に沖縄の施政権返還を決定する。冒頭に述べた通り日本国内向けには「核抜き本土並」であり、実態は米軍基地機能の全面的な維持保証であった。同時に国内世論に配慮し東京周辺及び大都市近郊の米軍基地を大幅に削減する事で日本政府の面子を保つのである。平和憲法の下に帰らんとする県民の願いは逆に平和憲法を空洞化する事によって占領下と変わらぬ現状を合法化し、本土並とは逆に本土基地の削減によって沖縄基地の比重を高め基地機能も強化されたのである。

新生沖縄県となって26年、公共投資による基盤整備が進む半面、本土資本による経済支配と開発による自然破壊によって失った物も多い。それが経済大国の豊かな生活であるならば拒む事はできまい。しかしながら県民の生活レベルは実質的に全国最下位のままである。統計上の数字では県民所得は全国平均の七割となっているが、公務員、本土資本系列企業、マスコミ、金融、軍用地主等を除く一般県民所得は全国平均の半分程度でしかない。1609年以来、常に被支配者の地位に甘んじなければならなかった生活の中で習い性となった他力本願の事なかれ的生活態度にも一因はあろうが、沖縄本島の20%を占める広大な米軍基地の存在が県民の向上心、自立心を阻み萎えさせている側面も否定できまい。基地被害に苦しむ一方で基地から得られる不労所得がもたらす社会的不平等が県民意識に及ぼす影響は軽視できない。

経済的自立は同時に精神的自立でもなければならない。従って沖縄が現状に甘んじ経済大国日本の尻尾である限り、永遠に沖縄は本土防衛の捨て石であり三等県であり続けなければなるまい。不幸な事件が幼い少女の勇気ある告発によって表面化し、県民の怒りを結集した抗議の声に対し日本政府はとりあえず問題解決に努めると表明してはいるが、この訴訟に提出された国側準備書面で見る限り、日本政府の真意は疑わしいと言わざるを得ず、実質的な問題解決は期待できない。過去26年間、米軍基地をめぐって繰り返されてきた改善への努力と言う口先だけの対応によって問題の鎮静化を図っているのであり、政府にとって御し易い保守県政を待望する時間稼ぎに過ぎないのである。

此処において我々沖縄県民が問題の根本的解決の為に何を為すべきかが明白となったのである。即ち我々は古の琉球の誇りと名誉をかけて日本国政府と決別しなければならない。自らの主権を持つ事によって米国と直接交渉し、基地の全面的解放を要求するのである。既にフィリピンの先例も有り、それこそが現実的な解決の唯一の方法なのである。

想えば1972年祖国復帰の時点で今日の姿は見えていたのであり、米軍支配を脱し独立する為に国連へ提訴する事も可能であった。しかしながら当時は米軍の圧制下にあって人権は存在せず、支配者である高等弁務官をして「自治は神話なり」と公言された時代である。素朴な県民は平和憲法に守られた日本政府の助け無しには米軍の圧制から脱する道は存在しないと信じていたのであるが、一部には独立論を唱える者も存在した。しかし県民の大多数は敗戦を体験し平和国家となって再生した筈の日本政府に幻影を求めたのであり、20余年も他国に里子に出した我が子を日本政府は母の愛で受け入れてくれると信じて疑わなかったのである。

県民の願いに反し新生日本の実態は大日本帝国の姿を変えた再生に過ぎず、アジアへの侵略戦争を正当化し、従って責任も果たさず反省も無いままに、再び経済による侵略を企む経済帝国に他ならなかった。大日本帝国の政治家、経済人、職業軍人の多くが責任追及から逃れ、朝鮮戦争を遂行する為の米国への協力者として新生日本の実権を握って行ったのである。それ故にこそ日本政府の沖縄に対する基本認識は明治政府と本質的に同様であり、更には1609年以来の差別が底流に存在するのである。

従って我々が今、目指す方向は名のみの王国であった琉球ではない。古のアジアの中心であった万国津梁の海邦の民、大琉球が400年の時を越えて復活するのである。かって我々が祖国復帰を熱望していた時代に沖縄の保守政治家、経済人の多くが「芋、裸足」論を唱えて世論に反対した。即ち沖縄はアメリカ軍によって生活が向上したのであり、日本に帰れば再び戦前の芋を常食とし裸足で歩く生活に戻るだろうと。我々の独立論に対し再び同様の反対論が唱えられよう。経済大国日本を離れて沖縄の発展は不可能だと。この様な反対論者の本音は現体制の中で授かる利権の保護であり、保守体制論者の普遍的な体質である。昨今の軍用地主会が唱える基地返還反対論が正にそれであり、自己権益の確保しか眼中に無いのである。

翻って沖縄が独立する事によって得られる利益は決して少なくない。例えば航空運賃を半減する事によって観光沖縄は、ハワイ、グアムと対等になり得る。折しも香港、マカオの返還に伴い、沖縄全域が自由貿易地域となればアジアのハブとして絶好の地理的条件にある。かって県知事として保守政界に君臨した西銘順治氏は沖縄の経済自立の為にカジノ設立を提言したが、香港と同じく豪華客船の寄港地となれば、世界の富豪が沖縄に足を運ぶのであり、カジノ設立は不要である。自然破壊が進んだとはいえ、沖縄の自然は今なお多くの魅力を残しており、観光地としての実力は世界に通用する筈である。

但し、独立が全ての問題を一挙に解決する訳ではないし、多くの困難も予想される。しかし乍それは未来を拓く為の扉であり、苦しみの先には喜びが保証されているのである。日本経済は現在、戦後最悪の事態にあり今後の規制緩和、市場開放が進めば対外的優位が今後も保証されている訳ではない。アジア諸国との関係においても過去の戦争責任も精算されておらず、経済大国であり続けるとは限らない。その様な日本国の尻尾である限り沖縄の経済は常に日本の辺境、後進地域としての不利を克服出来ないのである。従って今、沖縄が日本に先駆けて自由貿易を基本とする経済のグローバルスタンダード(国際的標準化)を進める事こそが沖縄の経済自立の唯一の方法なのである。我々が過去に幾度か繰り返してきた、座して死を待つに等しい失敗を想うならば、今こそ決然と立ち上がらなければならない。古の大琉球は海上の道によって万国の津梁となった。今や此の地は海上のみならず空の道、電子の道(通信)によっても世界と結ばれ、自らの意志によって武器無き国となって日本国憲法の理念である非武装中立を実現するのである。

21世紀を目前とする今日の世界で、此の地に領土的野心を持つ国が存在するとは思えないが、唯一の例外があるとすれば、かっての薩摩と同じ唇歯の国、日本であろう。万一の場合、我々は先人の轍を踏まず地の利を生かしてゲリラとなって戦うと共に、国連に提訴してPKO部隊を受け入れよう。その際に日本は国連常任理事国として拒否権を発動するのであろうか。その時にはアジアを始め世界の友好国から義勇軍が押し寄せるに違いない。

以上は決して夢物語ではない極めて現実的な話であると私は考えるが、日本国民の皆様にはご理解願えるであろうか。

本稿は1996年1月の時点で纏めた物に1998年5月一部加筆した。

  沖縄県糸満市字賀数17番地  フリーライター 大城 伊佐生

追記、1999年 4月4日 沖縄尚学高校が選抜高校野球大会で春夏通じて初の全国優勝を果たした。この日4月4日は明治12年(1879年)琉球処分による沖縄県の発足した正に、その日であり120年ぶりに沖縄県民の自信と誇りが蘇った事に奇しき因縁を感じざるを得ない。

2002年沖縄は祖国復帰30周年を迎える。この間に人口は毎年一万人のペースで増加して来た。米軍基地維持の為に日本政府は振興策と言う名の予算を支出して来たが実質は大手ゼネコンへの救済策であり巨額の予算は企業献金として自民党に還流するシステムである。従って県民所得は全国最下位のままで失業率は全国平均の2倍という構造が常態化して米軍基地との共生を迫る日本政府の意向に逆らえず飼い殺しの公共工事に縋り付く結果となっている。

この30年間に沖縄では公務員を中心とする全国レベル所得の富裕層と民間零細企業に働く低所得層とで貧富の格差が拡大し二極分化が進んだ事で県民意識に断絶が生じる結果を招いた。過去の米軍時代には敬遠された公務員が経済大国の中流レベルが保証されているのに反して民間零細企業では労働基本権すら存在しない劣悪な環境でも耐えなければ失業する以外に無いのである。この様な二極分化の中で本土出身学生の多くが沖縄定住を希望して沖縄社会に浸透し恵まれた職種を本土出身者が占める結果となり沖縄人は低所得に甘んじている状況が現出した。更に近年は沖縄移住希望者が増加しており今後の情勢には予断を許さない局面が予想される。

本来ならば先住民である沖縄人が暴動を起こしても不思議では無い環境下に有りながら県民性の故に「なんくるないさ」と泰然として苦難に耐えている。この様な背景が米軍基地反対では一致出来る県民世論を経済的な問題では分断し日本政府の思うがままに自民党の意向に添った県知事、議員、市長を誕生させて来たのである。沖縄人は最早、闘争意欲を失ったかの如く見える事で日本政府は安心していよう。しかし我々には400年近い忍従の歴史から学んだ処世術が有る。それは決して諦めない事。絶望的な状況でも生き延びれば希望がある事。命さえ有れば必ず未来が来る事である。「命どぅ宝」の精神で必ず何時の日か日本政府の呪縛から解放される事を信じよう。

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