魏志倭人伝2013/2/15

ブックマークへジャンプ。◆南、邪馬台国に至るその位置は会稽東治の正に東倭地温暖皆裸足
長寿の国南四千余里小人国原文末尾以下は私の独断埋葬法が違う最後尾へ

この魏志倭人伝は全てを原文のままで表示しています。原文の文字を生かす為、全てを画像にして処理しました。原文中の赤い文字の部分は私の手書きで画像を作成しています。なるべく分かり易くしていますが原文を崩さない様に忠実に再現するのに苦心しました。ニライカナイ/大琉球への道/isao-pw/ブログ


倭人は帯方東南の海中、山島に在り。(この帯方郡は漢の時代は楽浪郡と呼ばれた)


元百余国、漢の時朝見者有り、今三十国。(漢之倭之奴国王の金印を授けられた)


郡より倭には海岸を巡り行く。時に南時に東、


韓半島の南岸クナカ国からが倭の地。此処まで七千余里、始めて大海を渡る千余里で対馬国。


大官はヒコ、副官はヒナモリ


土地険しく山は深い、道路は獣道。


千戸余り、良田は無く海産物で自活。南北に村在り。


又、海を渡り千余里で壱岐国に至る。官の名は又ヒコ、副はヒナモリ。


竹木生い茂り、三千戸。


田地有れども猶不足、又南北に村在り。


又、海を渡り、千余里でマツラ国。四千戸。


山が海に迫り草木繁茂して前を行く人も見えず。


魚多く水深を問わず潜って捕る。(これは南方系の漁法で所謂「海人」ウミンチュ)


東南五百里でイト国に至る。官はニキ、副はシモコ・ヒクコ。


千戸、皆女王国に属す。郡使の往来に留まる所。(重要な場所で特別に大官が常駐)


東南百里に国。官はシマコ、副はヒナモリ。二万余戸。


東百里にフミ国。官はタモ、副はヒナモリ。千余戸。


南、トウマ国に至る。船で二十日。官はミミ、副はミミナリ。五万戸。(鹿児島)


南、邪馬台国に至る。女王の都する所。船で十日、陸行一月。私家版大琉球史6p


官はイキマ、次はミマシ、次はミマカキ、次はナカテ、戸数七万余。


此処に至る女王国以北について略記するが、その他は不詳。(21国が記されている)


次ぎにシマ国、次ぎにイワキ国、次ぎにイヤ国、次ぎにタケ国、次ぎにミナ国


次ぎにコウコト国、次ぎにフワ国、次ぎにタカナ国、次ぎにタイサ国、次ぎにソナ国


次ぎにオオ国、次ぎにカナソナ国、次ぎに国、次ぎにワカ国、次ぎにキナ国


次ぎにヤマ国、次ぎにキジェ国、次ぎにハニ国、次ぎにキユ国、次ぎにウナ


次ぎに国、此処まで女王の境界。(ここが那覇で邪馬台国より南に位置する)


其の南にクナ国有り、男子の王、官をククチヒコ、女王に属さず。私家版大琉球史7p


郡より女王国は一万二千余里、男子は大小無く皆鯨面文身。私家版大琉球史5p


古来その使い中国に詣る。自称大夫。


夏の少康の子、会稽に封じられ、断髪文身して身の安全を図る。


倭の水人好んで潜水して魚貝を捕る。入れ墨は危害を防ぐ目的から飾りとなり


地方、身分により様々である。


其の位置は会稽、東冶の正に東。私家版大琉球史5p


風俗は淫ならず、男子は皆、裸に近い。布を頭にし


横幅広く前で連ねるだけの衣服。(この衣服はかなり南の気候を示す)


婦人は髪を束ね、単衣の布の中央に穴を開けた様な衣である。


稲、チョマを植え桑の木に蚕を飼い糸を紡ぐ。(苧麻は沖縄から南で繊維を使う)


この地、牛馬等は無し。兵は矛、楯、弓を使う。


弓は下を短く上を長く、竹、鉄、骨を使う。有無はタンジ、シュガイと同じ。私家版大琉球史9p


倭地温暖で冬夏常に野菜有り、皆裸足。(冬も雪が降らず裸足で暮らせる気候である)


父母兄弟別れて寝る。朱を身体に塗り化粧する。


死して棺を土中に埋め土の塚を作る。隔壁無し。(過去卑弥呼の墳墓とした場所は隔壁有)


死後十日余り喪に伏し肉を食さず、喪主は泣いて悲しむが他人は歌舞飲酒。


埋葬後、一家で海に入り清める。(海若しくはかなりの大河が近くに有る)


中国への旅で使節の一人は顔も洗わず髪も梳かず


衣服は汚れるままで肉を食べず、死人の如くして之をジサイと呼ぶ。


道中の苦難有れば全てはジサイの責任とされ


場合によっては殺される。


真珠、青玉を産し山には丹有り、


竹は篠竹(細い)(沖縄の在来種である琉球竹は正に篠竹)


果実あるも食し方を知らず


猿、雉あり、


骨を焼いて占う。


会合は長幼男女の別無く、酒を嗜む。


身分高き人には手を合わせて拝む。人の寿命は百歳或いは八、九十歳。(長寿の国)


高位の人には四五人の妻妾、身分低きも二三人の妻。


治安良く争い少ない。罪を犯せば妻子を取り上げ、重罪は一族を殺す。


尊卑秩序有り。役所に税を納め


村毎に市有り、交易を大倭の役人が監察。


女王国以北に特に大官を置き、諸国を検察。


伊都国を中心に各地に連絡、常に使節の動向を伝え


港の出入り等を確認して間違いを防ぐ。


高官の輿に会えば草むらに下りて道を開け


話を聞くときは蹲り跪いて両手を土に付け


答えるにオオと言う。


此の国、元は男子の王、国乱れて互いに争い数年。一女子を立てて王とする。


名を卑弥呼、鬼道に通じて大衆の心を掴む。年長けても夫無し、弟有りて之を輔。


王となりて後、姿を見た者は少ない。千人の女官に守られ、男子は弟一人のみ出入り。


宮殿、城塞を設け衛兵を置く。


女王国の東、千余里に又、国有り皆倭人。


其の南、四千余里に小人国有り、身長三、四尺。


其の東南に裸国、黒歯国有り、船で一年を要すと。


聞くところでは大海の中に島々有り、周囲五千余里。


倭の女王、ナスメ等を派遣して郡に至り


天子に朝貢を乞う。太守は都に使者を送る。


その年12月、詔書により「親魏倭王卑弥呼」と認め


ナスメ等を都に送り


貢ぎ物を受ける。


天子曰く、「汝の居るところ遙かに遠くも使いを派遣する忠義の心


甚だ佳、よって茲に金印を授け太守に届けさせる。


使者ナスメ等も遠路ご苦労である。


よってナスメ等に官位、銀印を授ける。


汝の貢献に報いる為


特別に用意する


品々、更には刀2本


鏡100枚。使者ナスメ等に預ける


持ち帰って国中の人々に示せ我が特別の好意を」


太守の使節、天子の詔書を持って倭王を訪ねる。


先の品々を届け、天子の言葉を伝える。


倭王、再び使者を送り貢ぎ物を献上。


使者に官位、印を授ける。


ナスメに特別に官位を授ける。


太守の使い、都に到り告げる。


倭王、卑弥呼、南のクナ国王、ヒミコオと元より不和、倭の使い郡に至り争いを告げる。


郡より使者を送りナスメに告諭。争い止まず


卑弥呼死す。大いなる塚を築く。経100余歩、殉葬者100余人。(大きな塚で隔壁無)


男子の王を立てるも国中服さず、1000余人死す。


改めて卑弥呼の宗女を王とし国平定。伊予13歳。


使者、伊予に告諭。伊予、倭の役人20人で使者の帰りを送らせる。


伊予、都への貢ぎ物を献上する。

以下に私の見解を述べる。
原文2行目、漢の時朝見者有りとは「漢之倭之奴之国王」で知られる金印を授けられた者を指す。

4行目、韓半島の南岸から倭国。倭人は南から来ている。

13行目、マツラ国の水深を問わず「潜って魚を捕るとは倭人のルーツは南方系である。

28行目、郡より女王国は1万2千余里。方位は南である。男子は皆鯨面文身す。
入れ墨は
裸で暮らす南方系の習俗である。

31行目、倭の水人(漁師)好んで潜水する。現在も沖縄から南のアジア諸国では「海人(ウミンチュ)と呼ばれる人々が潜水を得意とする。海中での安全の為に入れ墨をして自らを魚の仲間とする。

33行目、邪馬台国の位置は東冶(現在の福州)の正に東である。

34,35行目、男子は皆「裸に近く只前で連ぐだけの衣。

37行目、苧麻は暖地に自生する。

39行目、有無は「タンジ、シュガイに同じ。中国の南端に在る海南島の地名である。従って気候的にも沖縄以北では適合しない。私家版大琉球史9p

40行目、温暖で冬夏、常に野菜有り。「皆裸足

42行目、墓地に「隔壁無し。之も南方系の習俗であろう。

43行目、喪主は泣いて悲しむが他人は歌舞飲酒。

54行目、会合は長幼男女の別無く。この様な習俗はやはり南方系である。

55行目、寿命は100歳、或いは8,90歳。温暖な土地でなければ長命を保てない。

60,61行目、女王国以北に特に大官を置き「伊都国」に常駐する。従って女王国はかなり離れた南に有る。マツラ国の東南陸行500里(約50km)の伊都国が佐賀県中部とするならば東南100里の「奴国」は2万余戸で大国であるが近すぎる。南水行20日の「トウマ国」は5万余戸で鹿児島であろう。南水行10日、陸行1月の「邪馬台国」は7万余戸。その間に大国は無く21国もが記されており遙かな距離を感じさせる。

従って「鹿児島」から南へ下れば沖縄本島南部以外に邪馬台国は存在しないのである。尚この場合トウマ国への「水行20日」は沿岸沿いの航路であり、その後の「水行10日」は外洋航路である。

この「陸行一月」については私家版大琉球史の6ページ私家版大琉球史6pを参照されたい。

此の陸行一月の記述が後の中国側の大琉球の認識を生み、そのイメージが15世紀の地図を描く際の錯誤となって「巨大な島(九州並の大きさ)」に描かれていた。大琉球之図逆に台湾は「小琉球」と呼ばれ実際の4分の1以下に描かれた。

又、琉球側はその錯誤を改めず尚王家の別邸、識名園内の展望台(勧耕台)は工夫を凝らして海が見えない角度に造られ広大な島で有るが如く振る舞ったのである。識名園

67行目、鬼道に通じて民の心を掴む。所謂、霊能者であろう。従って権力では無く権威の象徴である。

72,73行目、裸国、黒歯国へは船で1年を要す。周囲5千余里の島々とは或いはハワイ諸島を指すのではないか。海流に乗れば周航は可能である。古代の海洋民族は意外な行動力を持っていた事が証明されている。

86,87行目、魏の天子(皇帝)は卑弥呼への特別な好意を国中の人に示せと鏡100枚その他を用意させた。従って鏡は各地の支配者に分配されたであろう。後に其れを奪い合う争いの結果、鏡は強大な権力者の独占する処となり、更にはレプリカを造って分配する事で日本の国家権力の統一がなされたのであろう。

96行目、卑弥呼の墳墓は径100余歩の塚であるが42行目で見たように隔壁は存在せず従って現存するとしても殉葬者100余人の骨以外は証明する手段が無い。恐らく後の世の地形の改変に依って其れ等は散逸したに相違無い。

98行目、卑弥呼の宗女13歳。娘では無く宗教的後継者である。
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以下は私の独断である。倭人は南方系の海洋民族であり、北上を続けた。

卑弥呼、弟、伊予は別の人種であり特殊な能力を持っていた。南に位置するクナ国王も同じである。卑弥呼等は所謂、亡命者として倭人と暮らしている。とするならばクナ国王は本来の一族の長であり卑弥呼の兄弟かも知れない。漢の皇帝に朝貢したのは彼等であろう。

元100余国が争う中で「漢之倭之奴之国王」の金印は失われ福岡県志賀島で発見された。

クナ国は孤立し朝貢の道を断たれた。卑弥呼はその後継者としての正当性を認められる為に魏の皇帝に貢ぎ物を届けた。魏の皇帝は逆に漢の後継者としての正当性を認められた事に感激して特別な好意を卑弥呼に示したのであろう。

卑弥呼/アマテラスとすれば弟/ツキヨミとなりクナ国王/スサノオの関係となる。後に倭国の中心が九州に移動し伊予も移り住んだとすれば邪馬台国/高天ガ原/神世の事として伝わり後に天皇家が権力の正当性を主張する為に古事記、日本書紀として纏められたのではと思う。

戸数で表示されている数は聞き書きであるので正確では無いと思う。人口を表すのか或いは周辺部を含む数であるのか?。


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平成12年3月27日奈良県ホケノ山古墳の調査結果が発表され卑弥呼の墳墓ではとマスコミを賑わしているが石囲い木槨が確認されている。

◆42行目で見た様に邪馬台国は有棺無槨である。従って同時代に奈良県に存在した古墳を築く埋葬法とは別の方法が邪馬台国では行われていた事になる。

やはり邪馬台国は南方系の文化であり、奈良県及び出雲等は弥生系(北方系)の文化であろう。

問題はその後に起きた古墳の規模拡大である。箸墓古墳がその端緒とすれば何故に規模が拡大されたのか?。つまりこれは支配者の交代を意味する。従来の支配者に代わって新たな支配者となった勢力が権威の象徴として墳墓の大規模な拡大を計ったのであり端的に言えば天皇家の地位が確定したのである。奈良県のホケノ山古墳を築いた先住の弥生人と邪馬台国の卑弥呼が同時代に別々の国に住み分けていた頃、天皇家の先祖は朝鮮半島から亡命して来た。

卑弥呼の死後、伊予の時代に倭国の中心は邪馬台国(沖縄)から伊都国に移り伊予もそこに移住した。吉野ヶ里遺跡がその場所であろう。この時代、倭国は渡来人と先住民の連合王国とが勢力を争い攻防を繰り返す中で、父祖の地奪還を目指す天皇家が主導権を握り北進論を唱えて朝鮮を盛んに攻めるが非戦派が離脱し九州南部に勢力を移す。

その後も主戦派は北進を繰り返すが404年、朝鮮半島から撃退される。北進政策の失敗により民衆の支持を失った天皇家は350年頃、東進を計り大和へ移る。すなわち神武東征である。

大和地方を征服した天皇家は巨大な墳墓を築く事で勢力を誇示するが九州の勢力も負けじと巨大な墳墓を築く。421年、倭の五王は共に宋の皇帝に朝貢し先の北進政策を詫びる。(この中の一人が雄略天皇)527年、磐井の乱で九州王朝が滅び天皇家は次第に勢力を伸ばし全国統一の支配者となる。

700年代に到り天皇家の権威を示す為に古事記、日本書紀が編纂される際に邪馬台国に関する記録は全て無視された。何故ならば邪馬台国は天皇家の関与しない先住民の王国であり天皇家の出自が焙り出される危険性を孕んでいたからである。

この時二つのトリックが編み出された。一つは神武即位年代千年遡って記す事。後一つは天皇家以前の歴史、伝説等を神代の事として天皇家の先祖が関わる形に変形する事である。
従って後世の学者が「記、紀」に基づく観点から魏志倭人伝を解釈する事は本末転倒である。
★この経緯に付いては◆私のブログ◆で検証した部分を追記します。★
日本の歴史学会は天皇家の都合で8世紀に抹殺された邪馬台国の記録を日本書紀、古事記に整合させ様として無理な解釈を繰り返して来ました。
これは根本的に間違った無駄な作業です。魏志倭人伝に残された邪馬台国の記録の存在を天皇家は知らないで先の記紀編纂を行ったので有り、日本国内に伝わる邪馬台国の伝承を天皇家の権威の為に改竄して神武以来の万世一系と称する嘘の歴史を補強する神話として流用したのです。
神武即位の紀元前660年は中国の辛亥革命思想の中から21回目の辛亥の年には大革命が起こる事を援用して聖徳太子の政務開始の西暦600年から1260年遡った紀元前660年を神武即位の年に定め実在した崇紳天皇との間に欠史8代(平均100歳以上)と言われる空白の歴史を捏造したのです。

従って従来の邪馬台国論は全てその基本的な誤りから出発しているので有る。
この様な実情を「記、紀」の編纂者が知れば仰天するであろう。

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