◆尚王家の出自を巡る考察/其の壱◆2006/9/25

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今回は長い間、保留して来ました琉球王国の謎/尚王家は何処から来たかに付いての考察です。全体は長過ぎますので今回は第一回です。

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尚王家の出自に付いて。琉球の歴史に関わる人物には幾つかの謎があります。「舜天」王は源の為朝の子であるとの伝説は広く知られています。源の為義の八男で鎮西八郎と呼ばれた為朝は保元の乱で敗れて伊豆大島に流されるが小舟に乗って脱走し運を天に任せて流れ着いたのが沖縄本島北部の今帰仁村運天港で大里按司の娘と為朝の間に生まれた「尊敦」が若くして浦添按司となり後に中山王「利勇」を滅ぼして1187年中山王に即位したと言われています。 この伝説を事実とするには為朝が伊豆大島から小舟に乗って琉球に辿り着けるかという証明が必要になります。海流図を見ると房総沖を北上する黒潮本流から南に向かって反転する流れに乗れば西向きの海流で琉球に至る事は可能です。琉球開闢の祖と言われる「アマミキヨ」に始まる外来者を「オナリ神」とする発想で手厚くもてなす習俗は現在にも継承されています。可能性として為朝伝説は否定出来ないと思います。以下に関係データを幾つか。
海人丸Expeditionサバニ帆漕航海2005よりサバニ帆漕航海関連資料/伊豆静岡
海上保安庁の海流速報から海流図海上保安庁の海流速報から海流推測図
第一尚氏の祖とされる鱗川大主は別名「八蔵大主」と言われ八つの蔵を持つ程の資産が有ったとされています。果たして伊平屋島で、その様な資産を蓄える事が出来るのかを考えた場合、その資産を築いた背景には彼等が本来は伊平屋島の外部から来た倭寇の集団で水軍とも呼ばれ広く交易を行うと共に略奪も行っていた事が考えられます。この謎を解く鍵がここに有ります。沖縄タイムス9月10日朝刊/奄美に太宰府出先
喜界島、城久遺跡群 関連記事<2006年9月10日>朝刊/特集14面(日曜日)カラー自社写図
[変わる古代琉球]/琉球と大和結んだ奄美/(15面見開き)この様な大和朝廷の出先機関の職務を支えて交易と流通の実務を担っていたのが航海術に優れた倭寇集団に他ならないのです。所謂「桃太郎」伝説は南海の島への略奪で巨万の富を築いた英雄(現在のヒルズ族)説話なのです。以下に関係データを幾つか。
奄美諸島インフォメーション邪馬台国総合説、赤椀の世直しOnlineより弥生時代末期のゴホウラ貝の腕輪瀬戸内短期大学/瀬戸内.沖縄文化研究センターちくしの散歩/弥生時代の首長墓― 隈・西小田地区遺跡種子島の文化財探訪/広田遺跡アイヌの人たちはどこから来たのか/青木梨理子(伊達市立東小学校6年生)
彼等の活躍もあって琉球が群雄割拠のグスク時代を経て中国との交易に乗り出した頃、大和朝廷でも先進国の中国から伝わった文明に伴って従来の必需品で有った南海産の貝類の需要が落ち込み奄美諸島は次第に重要性を失って行きます。
その様な時代背景の中で立地条件の良い根拠地を求めて南下し佐敷に居を構えた理由は中城湾の港湾機能と北向きの傾斜地で先住者が居なかった(古来より南向きの傾斜地が居住に適していた)事に有ります。 当時、各地域の支配者は「按司」と呼ばれ各々が独立した権力を保持しており、按司同士の広域連合を統率する者を「世の主」と称していました。北山、中山、南山の世の主は対外的には王と名乗っていましたが実質的には部族連合の様な形で専制権力者ではありません。当然ながら世の主に従わずに独自の勢力を誇る按司が群雄割拠していました。
佐敷の若按司と呼ばれた鱗川大主の孫「巴志」は周辺から一目置かれる存在でした。それは彼等の一門が航海術、軍事力、経済力に優れていた為に島添大里に居城を構える南山世の主の足下に居ながら支配下に与せず、逆に南山王として中国に派遣する進貢船の動静に通じて付随して動く事で利権を確保していたと考えられます。この様な事情から南山王は大里間切の島添大里城(現南城市)から高嶺間切の島尻大里(現糸満市)へと居城を移す事になりました。それが結果的に中山と北山を滅ぼし琉球の統一を目指した尚巴志に対して南山が最後まで頑強に抵抗した理由なのです。
時の明国皇帝は「琉球」からの「進貢船」を歓びつつも付随して来るかの如き「倭寇」の侵略に苦慮していた。福建省から「琉球」の発展を見越して集団移住し「浮島」と呼ばれていた場所に「久米村」を築いた36家族を通じての「情報」では琉球各地に「倭寇」が定住し勢力を競っていた。その様な実情から琉球統一が急務とされ「道教」の僧を名乗る「懐機」が派遣されて久米村の人々と共に琉球統一の深慮を巡らせ佐敷の「按司」となっていた「巴志」を擁立して琉球国が統一される。明国皇帝は大いに慶び「尚」の姓を賜り茲に第一「尚氏」琉球国中山王統が成立したのである。続きは次回に。

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◆海洋博記念公園の「美ら海水族館」沖縄本島南部に新しく開通した「ニライカナイ橋」本部半島の嵐山のパイン畑に付いてのレポートも御参照下さい。

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